台風が一度にたくさん来たり、残暑も相変わらずだったり、天気が不安定だとなんとなくもやもやしてしまいます。皆さん、こんにちは。副院長の森豊和です。
最近のテーマとして、私は、河合隼雄が紹介する物語や、村上春樹の作品、紹介する物語について書いていきたいと思っています。今回は河合隼雄がエッセイ「猫だましい」で心理療法の見本として解説しているポール・ギャリコの代表作「まぼろしのトマシーナ」についてです。この作品は1963年にディズニーで実写映画にもなっています。
今回も対話形式で、ややこしい内容をなるべく分かりやすくしようと試みました。対話相手に名前をつけていませんでしたが、今回から「なぎさ」(凪を当てます)とつけます。
なぎさ: 先生、おはようございます。貸してもらったポール・ギャリコの本2冊、読んでいます。以前教えていただいたウィリアム・サローヤンは小田扉の漫画みたいでしたけど、ギャリコはちょっとジブリ映画みたいですね。
先生: それは良かった。「さすらいのジェニー」なんて、まさにジブリの冒険ファンタジーですね。両親の愛を受けていない少年が交通事故をきっかけに無意識の世界で猫になり、自身のアニマである猫ジェニーと冒険する。
なぎさ: アニマというのはユングが提唱した無意識の中にいる異性ですよね。私だったら男性形のアニムス。
先生: そうです。影、アニマ/アニムスといった無意識に潜む心のパターン(元型)は、人間の心の成長に深く関わっています。韓国のポップ・グループBTSが影に向き合うことをテーマにしたアルバム「MAP OF THE SOUL : 7」を発表したことも話題になりましたね。
なぎさ: 師長さん達、BTS好きです(笑)。ジェニーとの関わりの中で、主人公は母親の愛を疑似的に体験して、それからジェニーを奪おうとするボス猫デンプシーと対決する。先生、私、ネットで調べたんですよ。ギャリコが駆け出しのスポーツ記者だったころ、デンプシーという名のボクシングのヘビー級チャンピオンと闘ったんだそうです。記事のリアリティのために? まるで岸部露伴みたいです。
注)岸部露伴とは、荒木飛呂彦の漫画、ないし、それを基にした実写作品「岸部露伴は動かない」の主人公、漫画家。非常に斜め上を行くやり方だが、彼の行動が結果的に人々の心を癒すこともある。古今東西、探偵役の主人公は、しばしばカウンセラーの役割を果たす。私は名探偵フィリップ・マーロウの直系「CITY HUNTER」がずっと好きです。
先生: 「さすらいのジェニー」は、ポール・ギャリコ自身の青年期の経験が反映されていそうです。その続編という位置づけになっている「まぼろしのトマシーナ」はジェニーのような楽しい話ではないけど、心の成長、癒し、他者との関係といったテーマを一段と深めています。乱暴な例えかもしれないけど、近代アメリカ文学の出発点、マーク・トウェインの「トム・ソーヤ」と「ハックルベリー・フィン」の関係にも似ているかも。
なぎさ: トマシーナもがんばって読みました!飼猫トマシーナが死んじゃったことで心を閉ざした娘メアリが癒される過程でもあるし、お父さんである獣医マクデューイの人間的成長を描いた作品でもあるんでしょうか。
先生: うん。うまくまとめましたね。これにて終了!というくらい。お父さんは腕のいい動物の外科医ですが、無駄な治療はしない。手遅れだと判断すればすぐ安楽死させてしまいます。ドライな対応は、妻が動物の感染症で死んだことも原因かも。
娘の大切な猫でさえ「手遅れだから殺す。また買えばいい」、それが愛だと考えた。娘からしたらとんでもない! 可愛がっていたトマシーナが死んだ時点で、彼女の心の中では、優しかったお父さんも同時に死んだ。彼女は緘黙になって何も喋ることができなくなる。これは悲しみを感じないように無意識に押しやったからです。PTSDに伴う解離症を起こしている。
マクデューイが真実の愛に目覚めるのは、動物の精神科医/カウンセラー的な立ち位置で登場する、うら若い魔女ローリーとの交流を待たないといけません。
なぎさ: 心が痛みますね……。お父さんの友人である牧師がメアリを元気づけるシーン(P166)が好きです。「トマシーナはどんな姿形をしていたのかな。こうかな?」と問うと、「そう、こんな色よ」とメアリが生き生きと話し始めます。「トマシーナは心の中で生きているんだよ」と牧師は続けます。このシーンを読んだら、「くまとやまねこ」の絵本を思い出しました。
先生: 私が看護学校の講義で使っていた湯本香樹実と酒井駒子の絵本ですね。牧師は「猫が死んだのはしょうがない」とか自分の考えを押し付けたりせず、哀しみに寄り添い、メアリが猫を想う気持ちを引き出したんです。
それは「くまとやまねこ」の作中で、親友の小鳥に死なれた熊に、森の動物たちが「小鳥は死んだから忘れろ」としか言わなかったのに対して、山猫が「君は本当にその小鳥と仲良しだったんだね」と伝えたのと同じです。
なぎさ: メアリはトマシーナを亡くして悲しみに暮れてたけど、牧師が山猫みたいに思い出を共有してくれたから、心の中でトマシーナが蘇ったんだと思います。
先生: このシーンで、牧師はメアリーに「トマシーナはどんな色だったかな?」みたいに聞いて、自発的な発言を引き出していました。そこが特に重要です。精神科臨床でも、意欲のない患者をやる気にさせることは難しいけど、一方的に命令するよりも、長い目で見たら正しい方法です。命令したり無理やり連れていってたら、その患者さんはいつまでたっても自分では何もできない!
「君はこうした方がいいよ」と言って患者を従わせるほうが、医師や看護師は楽です。食べないご飯を食べさせるために命令することはあります。けれど、医療者の都合で黙らせたいから黙らせるのは明らかにおかしい。「それはあなたの我儘ですよ」とか決めつけて。命令したり押し付けたりしてると患者から潜在的に嫌われ、時にいきなり殴られます。私もそういう経験がありました。おとなしい患者さんにひっぱたかれて初めて気づくんです。今、私はこの人を、自分の都合で従わせようとしてたって。
なぎさ: 私もそんな風になってる気がします。つい声を荒げてしまうから…
先生: 貴女はたとえきつい言い方をしていたとしても、たぶん、強制的な命令にはなっていません。だから嫌われていないと思います。そういうことは言葉とは別のレベルで伝わるんです。「窓際のトットちゃん」を読んで共感する時点で、たぶん、そうなんです。
なぎさ: そうなのかな……。でも、ありがとうございます。少し安心しました。
どんな人でも、自分で決める権利を持ってるから、医療従事者が患者を従わせようとするのはおかしいと、私も思います。命に関わることは命令しても仕方ないけど…
牧師さんみたいにうまくするのは難しいけど、この会話の中でヒントがたくさん詰まっていると思うから、しっかり読み込みたいと思います。
それと、お父さんが魔女ローリーと一緒に怪我したアナグマを助ける話ありますよね。その後、ローリーの治療小屋にいる、怪我した動物たちの中で、仮病で縮こまっているハリネズミを見つけるシーン(P211)も好きです。
先生: どもったような調子でマクデューイがおどけて話すところ。
なぎさ: あれ、言い方もコミカルですよね。訳す人の性格が、出ますね。
先生: 矢川澄子は「ハイジ」、「不思議の国のアリス」、「若草物語」など名作の訳を多く手がけていて、うまい訳かどうかより、たとえ読み難くても、この人の訳で読みたいと思わせる翻訳者です。
なぎさ: えっと……それでですね! 仮病のハリネズミを想像したらすごく可愛くて、描きたくなって描いたんです……。見てくれますか?
先生: おお!! この絵で… 世界名作劇場のアニメとかにしたい。
なぎさ: ええ!?……そんな大層なものじゃないです。ハリネズミは怪我してなくても、仲間はずれにされたとか、何か悲しい事があったとか、きっと理由があってここで休んでいると思います。
先生: そもそもハリネズミって全身の針で繊細な心を守っているんでしょうね。
なぎさ: 確かに!針が無いと柔らかいお腹を曝け出して天敵に狙われやすいもん! 自分を守るために針が備わってるんだ。心にも体にも。ハリネズミはずっと天敵に狙われるのに疲れてローリーの所に来たのかも。
先生: あのシーンは精神科と外科の治療の仕方の対比みたいですね。
なぎさ: 本当にそう!お父さんが身体を治す、魔女のローリーが心を治す、みたいな。このハリネズミのおかげで、体が大丈夫でも心が疲れたときは休まなきゃいけないって学びました。
先生: 心の疲労が極限に達すると、体もオーバーヒートして高熱出して倒れたりします。さもなければストレスを頭だけでヘディングし続けて精神病になっちゃう。これは中井久夫の受け売りだけど、前者は研修医のころ、実際に私は体験しました。本当に原因不明の熱が出る。
なぎさ: 最初の話に戻りますけど、牧師がメアリと話している時、メアリは「お父さんは私が殺した。あの男は知らない人」と言い放ちますよね(P172)。あれはトマシーナを殺した父への意図的な復讐なのか、それとも大好きだったお父さんがトマシーナを殺したことを認めたくないから逃避しているのか、ずっと考えてます。
先生: 両方あるんでしょうし、大事なポイントだと思います。お父さんが娘を愛しているのは確かなんです。でも娘の愛猫、トマシーナを見殺しにしたのは決定的に間違っていた。たとえ無駄でも治そうと努力するべきでした。結果より過程が大事なんです。お父さんが頑張れば、猫は父と娘の間で生き続ける。
だから後のシーンで、お父さんが魔女の家で手遅れかもしれないアナグマを懸命に治療した話をすると、初めてメアリは反応するんです(P224)。
なぎさ: アナグマを治療したことを、ファンタジーっぽく話すシーン、私も気になってました。お父さんがあんなふうに娘に物語を語ったのは初めてだと思うんです。だからメアリは最後まで真剣に聞いたし、アナグマを治療したお父さんは、自分の心も治療したんだと思います。
先生: あそこで、お父さんは魔女ローリーの流儀に知らず知らず引き込まれています。外科的に治るかどうかを越えて、たとえ不可能でも、人間には立ち向かわなければならない時があるって。神にすがっても、むしろ神や悪魔にでもなろうとすべき瞬間があることを知るんです。このとき、彼は魔女を愛し始めていた。
これまでのお父さんは手術が正しければ患者は死んでも構わないという人でした。でも、たとえ思い通りに手術ができなくても、患者がよくなれば結果オーライ、みたいに、考えが変化してきている。
なぎさ: そっか、お父さんは(ジョジョ第5部の)ディアボロのように、「過程はどうでもいい、結果が良ければいい」という人だったんですね。
注)ディアボロとは、荒木飛呂彦の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」第5部「黄金の風」の登場人物。ギャングの元締め。特殊能力で物事の過程をすっ飛ばして、自分に都合の良い結果だけを得ることができる。これは彼が患っている解離症が現実世界にまで影響を与えているのだと解釈できまいか? 都合の悪い出来事をなしにして結果を作り替えるわけだから。
先生: 「結果、死んじゃってもいい」だから、なお悪い。お父さんは妻の死をきっかけに、神様との繋がりを断たれていたんです。でも魔女ローリーのおかげで神様と繋がれて、再び人を愛するようになります。
なぎさ: 大切な人が理不尽に亡くなったら、神様なんていないって思いますよ。そう思うと、お父さんは可哀想な人なんだ。
魔女ローリーの治療小屋の話に戻りますけど、あれ?って思ったシーンが一つあって。魔女の家に骨折が治ったカエルが保護されているのを、お父さん、気がつくんです(P213)。そのカエルは、ちょっと前、メアリの友人が骨折を治してくれとお父さんに頼んだカエルなんです。
「無駄だから治さない」と言い放ったのに、あのときのカエルだとすぐに気がついたのは、彼が無意識で、カエルを助けるべきだったと後悔してたかもしれないと思って。
先生: カエルの件は、確かにそうかも!考えもつかなかったです。
なぎさ: カエルの足に、骨折が治った形跡があったからすぐに気がついたことになってますけど、にしても、あの冷たいお父さんがカエルのことなんか覚えていたのが、なんか意外なんですよ。
その前後のやり取り、娘の反応などで、「あれ?俺のやり方は間違っていたのか」と思って、振り返ってカエルのことも気になり出していたのかもと思って。
先生: あぁ、確かに!カエルを追い返した数日後に、メアリが「トマシーナを助けて」とやって来たから、連動して覚えてたのかも。こうやって考えていくと、「まぼろしのトマシーナ」は、医師の道を断念した作者自身の経験が色濃く投影されたお父さん(マクデューイ)の物語だし、作者の半自伝的な色彩が濃そうです。多くの場合、そういう作品ほど後世に残っていくものだと思います。
なぎさ: マクデューイ=作者というのは読み進めて私も感じました。虐待で死んだ子熊を見て泣くシーンは彼の凍っていた心が溶けてきたから泣きそうになったんだと思います。でも、作者の個人的な経験が色濃いほうが、多くの人に伝わりやすいのって、何故なんでしょう?一般的でない特殊なケースなのに。
先生: では逆に、貴女は、作者自身も登場人物と同じ位置で一緒に悩んでいないような作品を読みたいですか。自分のことは棚に上げて、「君のためだよ」とか言いながら、他の人の弱さや過ちに説教垂れるような人を信頼できますか。逆に「君は悪くないよ」という場合も、その罪を相手に代わって自分が引き受けるつもりで話さないといけない。
優れた作品には、それを書いた者の個人的な後悔が、必ず反映されています。そういった感情をどこかに隠して、「俺は何も悪くないし正しい」と、完全無欠な聖人を装った瞬間に、私は誰も救えなくなる。相手だけでなく、自分自身さえも。
だから私は、自分の過ちを直視しないといけない。正しいと思ってしたことでも、どこかに必ず間違いはあるものです。その気持ちを持ち続けた上で、守るべきものを守り、許すんです。そうして初めて、お互いに成長していけるんです。
なぎさ: 物語の後半で、マクデューイがローリーに対して鐘を鳴らしながらプロポーズするシーン(P321)は、駄々をこねる子どもみたいです。もっとロマンチックに訳してもいいんだろうけど、あえて、より間違っためちゃくちゃな表現にしたのかなと思います。ずっと神を信じなかったマクデューイが悔い改めて祈るのは、作者も似たような経験があったんでしょうか。
先生: そうかもしれませんし、あの場面でマクデューイは初めて素直に人間味のある行動をしてるんですよね。ああいう風に感情を爆発させることが必要な時ってあります。
なぎさ: 今まで記憶を失くしていたトマシーナが、後半、ラベンダーの香りがきっかけで記憶を取り戻すシーン(P357)は妙にリアルでした。匂いや香りがきっかけで過去の出来事を思い出すことがありますし。
先生: トマシーナも解離症だったと言えるかもしれません。マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の有名な冒頭とか、嗅覚は一番原始的な感覚ですしね。
過去から現在まで一貫して自分が存在するという感覚こそ、自己同一性(アイディンティティ)。自分が自分であること、自分で考えて主体的に行動することです。それを決して無くさないように、奪われないようにしないといけない。奪われたら取り戻す。
何らかの暴力に晒されたとき(トマシーナの場合は見殺しにされた時)、私たちは時間や記憶やそれにまつわる感情を奪われるかもしれない。これがPTSDに伴う解離症の一番簡単な説明です。でも、誰かがその人をずっと見守っていたら、変化に気づくはず。損なわれたパーツを取り戻せるかもしれない。そのために、私や、貴女や、みんながいるんです。コミュニティーは所属する一人一人のためにあります。
なぎさ: 自分で考えて行動する、自分が一貫して自分であること、改めて言われると果たしてできているのか、自信が無くなってきます。
先生: この本を読んで、ここまで考えることができたら大丈夫です。でも、もし貴女が大切なパーツを失くしたら、また、ちゃんと、私が見つけます。
注)矢川澄子訳「まぼろしのトマシーナ」は現在絶版ですが、新訳が東京創元社より入手できます。文中のページ数は「トマシーナ」(創元推理文庫)のものです。